妄想プロット:手帳の幻想

10月からの移動で,小栗くんが大学からやってきた.
入局して2年目.これから彼を鍛え上げるのが僕の仕事.
1週間で指示の出し方や,この病院のルールをだいたい覚えたみたいなので,いよいよ本格的に働いてもらうよ.
「ところで,今月の末に,病棟の移動と合わせて歓迎会をするんだけれど,30日は大丈夫?」
小栗くんは手帳を取り出した.
横にいたローテート中の研修医の綾瀬はるかが声をあげた.
「あっ,小栗せんせいの手帳ってすてき,でも,ちょっと女の子っぽい」
小栗くんは「あっそう?」と言ったが,ちょっと表情に陰りが出たのを,僕は見逃さなかった.
「ひょっとして,彼女からのプレゼントとか?」
綾瀬はるかは,何も考えていない.
小栗くんの視線はいったん壁の時計の方へ行き,僕のもとへ戻った.
「それってさ,オンサンデーズの手帳じゃない?」
「えっ,よくわかりますね,せんせい」
「うちの妹が好きで,毎年買ってるんだ」

僕は嘘を言った.僕の妹が使っているのは,エルメスの手帳だ.
オンサンデーズの手帳を毎年買っているのは僕だ.
僕の誕生日は10月20日で,何年も前の誕生日に,誕生祝いだといって,付き合い始めたばかりの女の子からオンサンデーズの手帳をもらった.「わたしとの予定をたくさん書き込んでね」と.独占欲の強い女の子で,付き合いだしたら,毎日が彼女で埋め尽くされた.おなかいっぱいというかんじになって,その手帳には彼女との予定はいくらも書き込まれなかった.
でも,それまでなんとなくシステム手帳を使っていた僕は,もらった手帳のあまりの軽やかさのとりこになってしまい,2月も3月もその手帳を使い続けた.気がつくと,秋には自分でその手帳を買いにオンサンデーズまで足を運んでいた.次の年も,次の年も.
どうせ,毎日の予定なんて,自分では細かく決められない.
学会や講習会の予定とか,気取った食事をする予定とか,本当にたまにのコンサートとか,そんな程度.急患が来たり,入院患者の具合が悪かったりで,「はい,わかりました,行きます」の毎日だから.子供がジャングルジムから落ちたり,どこかのおばさんの脳動脈瘤が破裂する予定なんて,手帳に書き込めるわけがない.だから,手帳はこれで十分.

僕はどきどきしていた.なんで小栗くんがこの手帳を使っているんだ.そして,手帳がすてき,といわれたときに,どうして動揺したんだ.手帳をくれた女の子は僕より2つ下だったけれど,小栗くんよりは8つも上だ.だいたい,もう女の子という年じゃない.
小栗くんも彼女からこの手帳をもらったのか.それはいつ?小栗くんも彼女にうんざりしたことがあったのか.
ずっと忘れていたあの重苦しい日々が僕の頭の中によみがえってきた.
この手帳を買いに行く時に,彼女のことを思い出すことはなぜかなかった.純粋に手帳が気に入っていたから.

小栗くんが彼女から手帳をもらったのかも,なんていうのは僕の妄想だろうか.でも,確かめることはできない.
なんだか彼がとてもいとおしい弟のような気がしてきた.
たくさん手術を教えよう,と思った.
彼の前では,僕の手帳を出さないようにしよう,と思った.

なかのひと