妄想プロット:優しくないのではなくて

「コバヤシせんせいって冷たくて」
とユリちゃんが言う.ユリちゃんはSLEの患者で,大腿骨頭がやられてしまっている.
来週,人工骨頭を入れる予定だ.
APSがあって肺梗塞を起こしたことがあるから,ワーファリンを飲んでいる.術前にへパリンに切り替えておく必要があるので,普通の患者より早く入院して手術に備えている.
小林先生は免疫内科の先生で,37歳.長身で色白,切れ長の目をしている.ビジュアル系内科医といったかんじ.元ピアノの先生の奥さんがいるけれど,このことは,人には隠している.小林先生が秋の院内コンサートで月の光を弾いているのを見たとき,男の僕でさえ,少しうっとりしてしまった.でも,必要なこと以外,ほとんど喋っているのを見たことがないし,外来はとてもぶっきらぼうだとナース達からは評判が悪い.「そんな書類は書けません」と突っぱねたり,「医学的には説明できません」と言いきったりしているらしい.
「かっこいいけど冷たい,人間じゃない」とまでユリちゃんは言う.「入院前の外来だって,あっ,じゃあ入院中にいろいろ検査しましょうね,くらいしか言わないの」

「コバヤシせんせい,わたしが今入院しているのわかってるくせに,病室に来てもくれないのよ」ユリちゃんは続ける.「ヒグチせんせいは,わたしが内科に入院したとき,ちゃんと病室まで来てくれたのに」
樋口先生は,今回ユリちゃんの手術を担当する,僕の上司.ちょっとメタボがはいりかけたおっさん.オヤジギャグが大好き.年は小林先生と同じ37歳だけれど,学生時代にできちゃった結婚をしていて,中学生になる娘を頭に4人の子供がいる.休日のイトーヨーカドーが似合いそうなかんじ.ひとなつっこいクマさん.

ユリちゃんはああは言うけれど,僕は小林先生をすごいと思っている.今回,術前の入院期間を利用して,スケジュールを組んで,いろいろ検査をしまくっている.DXAをして,頭のMRIをして,下肢静脈エコーを予定している.クレアチニン・クリアランスもホルモン系の検査も組まれている.へパリンのコントロールも自分がするから,といって,僕にいろいろ確認をとりながら,自分で指示を出している.樋口先生はオペそのものの腕は確かにいいと思うけれど,そのほかは結構雑で,面倒なことは僕にやっとけ,で終わる.その場を和ませる才能もあるし,いい人なのだと思うけれど,まあ普通,

小林先生は前の大学にいるとき,患者であった奥さんと知り合った.奥さんは基本的にはSLEなのだけれど,指尖の潰瘍形成が強くて,ピアノが弾けなくなり,自暴自棄になっていたのだという.担当医だった小林先生は,奥さんと愛し合うようになり,いろいろあって,郷里に戻るという名目で,今の大学に移ってきた.僕の弟は小林先生の出身大学と同じ大学の呼吸器内科なので,僕にそっと事情を教えてくれた.奥さんが入院していた個室には,小林先生が持ち込んだCDが積み上げられるほどあったのだそうだ.
伝説となっている,というその話を弟から聞かされたとき,僕は知ってはいけなかったことを知ってしまった後ろめたい気分になり,このことは,誰にも言わないでおこう,と自分に誓った.

「小林先生はとても,優しいんだよ」と僕はユリちゃんに言ってあげたい.毎日ナース・ステーションに来て,カルテをチェックしていることを本当は教えてあげたい.でも,ユリちゃんは樋口先生のオヤジギャグで入院生活をリラックスして過ごせているので,今のままでいいや,とも思う.コバヤシワルグチをいつもいつも聞かされるということは,ユリちゃんもどこかでは小林先生の優しいところに気づいていて,小林先生がとても好きなのかもしれない.

なかのひと