妄想プロット:玩具船

私の家では新聞をとっていない.
子供がいれば,教育上,新聞をとらない,というのも良くないかもしれないけれど,子供がいないんだから,いいじゃないか,と英明は言う.
英明は新聞を嫌っている.

おととしの秋に,勤務する病院についての記事で,ひどく腹を立てたことがあり,それ以来購読をやめている.春に英明の勤務する病院の近隣の病院で医師の引き上げがあり,外来患者が英明の勤務先に殺到するようになった.午前の外来が終わるのが2時,3時になるようになり,予定手術の開始が遅くなった.時間外の患者も集中し,オンコールで呼ばれる回数も増えた,そのころの英明の疲弊ぶりは隣でみているのがつらいほどだった.部長と院長が相談をし,英明の科では紹介状を持たない患者は診察しない方針にして,3か月ほどして,ようやく夜の9時には帰宅できるようになった.しばらくして,ある新聞の投書欄に病院が特定できる形で,「受診したのに紹介状がないと断られた,けしからん」という論調の投稿が載った.部長と院長はその新聞社の担当者を病院に呼び出し,事情を説明した.ナンバー2の英明もその場に同席したのだそうだ.「今だって,若い部下たちはへとへとになるまで働いている.投書という形を借りた,自分の手を汚さない暴力はやめてくれ」と部長は言ったのだという.

1月の末に,英明と.妙心寺展に出かけた.お寺系だと工芸品のすてきなのがありそうだったから.下調べもせずにふらっと出かけた.
期待していた工芸品は少ししかなくて,古文書と絵の掛け軸がたくさん.
会場を進んでいくと,英明の足が止まった.
秀吉の実子,棄丸の座像と玩具船.
たった3歳で死んでしまった棄丸.彼が乗り人に引かせたという玩具船.昔から男の子は乗り物が好きだったのね.武具は素晴らしい手仕事.

私たちには子供がいない.一人目の男の子が死産で,そのあとは不妊治療をしたけれど,できなくて,私が37歳になったのを機会に治療をやめた.

たぶん,棄丸の前で涙を流す人は私たちのほかに大勢いることだと思う.棄丸は何で死んだのかしら.はしか,それとも天然痘?ひょっとして,ソリタT1の2本もあれば助かったような,風邪とか下痢?

会場を出たあと,公園の入り口近くでジャグリングを見ていると,英明は言った.「今日はなんかちょっとおいしいものでも食べようか」
いつもマシーンのように働いているんだから,たまには昼酒でも飲みましょうよ.


今日,医局のラウンジでなんとなく新聞を開いていると,妙心寺展について書かれた記事があった.「・・・数え3歳で死んだ棄丸の座像,玩具船は親しめる展示.秀吉の親馬鹿ぶりに苦笑した」と.家で新聞をとっていなくてよかったと思った.英明は今日は手術日なので,病院で新聞を読むヒマはないはず.
何の悪気もなく,書いた記事なのだと思う.でもこの人は,玩具船を見て,胸が痛むことがまったくなかったのかしら.

文章というのは人を傷つける.私がこうして文字にしたことも,誰かを傷つけているかもしれない.

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