妄想プロット:整理整頓

私が主任から看護師長になってこの病棟に配属され,今日で3か月になる. 慣れない病棟で初めての管理職だったが,まあなんとか.
うまく表現できないのだが, vividでない病棟,というのがこの病棟の第一印象.
どんよりしている.お昼には車いすに乗せた患者をナースステーションに集めて一斉に食事介助をし,夜には不穏の患者をベッドごとナースステーションに連れてきて,見張る.
急性期病院のはずなのだが,近くにあった老人病院が閉鎖になったあおりで,退院までの日数が長くなっていて,独特の雰囲気がある.
ナースステーションはどこかなげやり.
たいていの病棟で,患者のカルテは主治医グループごとにカルテ棚に収納されていたが,この病棟では,病室ごとに収納され,背表紙に患者名はなく,病室とベッド名だけが記載されていた.たとえば803-2 みたいに.
シャーカステンの前には,「医師へ 指示は15時までに」と書かれた紙がすこしななめに張られていた.
検査伝票が入れられているレターケースは悲惨だった.レターケースの上に「整理整頓」とあまり上手でない字で書かれた紙が張られ,○○医師とかかれたそれぞれの引き出しからは,伝票があふれていた.
私の前任は,看護部長のお気に入りだったが,病棟で働く医師達からは必ずしも好かれていなかった.医師達はあまり病棟にいつきたがらないようだった.
私は2ヶ月間,じっと観察をした.用事をつくっては,夜間や休日に病棟にやってきて,私がいない時間の病棟を見た.

医師達が日勤帯のうちに病棟に来るのは実際問題としてほとんど不可能だ,ということは,すぐにわかった.市内の病院のうち,2病院で脳外科が閉鎖となり,急患はほとんどがこの病院で受けることになってしまっている.外来をして,アンギオをして,手術をする.その間に急患を受ける.朝すこし早く来て,病棟にもっと顔を出して,と言いたいのだけれど,帰宅が遅い彼らは朝も遅くて,毎日遅刻.というか本来の始業である8時15分ではなく,外来が始まる9時ぎりぎりにやってくるらしく,9時になってから病棟に顔をだして,それから外来へ.看護部基準からすれば,朝は大遅刻で,外来開始が遅くなるのは大怠慢である.でも,彼らはあまり気に留めていないようである.9時に病棟に現れられても,あまり長くとどめておけば外来やアンギオに差し支えるので,時間勝負で昨夜のことの報告をしたり,今日の指示などで不明な点を問いただしたりしないといけない.これは病棟ナースにとってはなかなかの負担になる.

脳外科の医師は6名で,部長は外来と一部の手術以外にはタッチしない.副部長の笠原先生が実務を取り仕切っている.その下4名がAチーム,Bチームに分かれていて,入院患者を担当し,夜間休日は交替で拘束を組んでいる.笠原先生は手術はするけれど直接は患者を持たず,アドバイザーの立場をとっている.急患については,それぞれのチームだけでは荷が重いと判断されたときに呼び出されてやってくる.ファースト・タッチはしないが,事実上365日に近い拘束の毎日.本来の専門は血管内手術であるが,何でもこなしている.毎週土曜日の午前9時に病棟にやってきて,入院患者をすべてチェックする.日曜日は原則として病院へは来ないが,問題が大きな患者がいるときは,午前9時に病棟に現れる.病棟のメンバーに言わせれば,日曜日の朝に笠原先生の姿を見かけたら要注意なのだそうだ.放射線科医の奥さんがいるが,子どもはいない.中肉中背でとくにハンサムというわけでないが,身づくろいはきちんとしていて,いつも清潔な白衣を着ている.42歳ということだが,どちらかというと童顔なので5歳は若く見える.胸のポケットには,よくある製薬会社の3色ボールペンではなくて,ブランド物らしいシルバーのボールペンと万年筆とペンライト,はさみ,瞳孔径がわかるアルミの定規が入っている.近くに寄ると,私の知らないコロンのにおいが少しだけする.几帳面さはかなりのもので,Bチームの石田くんがレターケースから爆発させていた検査結果の伝票をそっと整理してカルテに入れているところを,見てしまったことがある.神経質なところと厳しいところがあるが,部下の4人は笠原先生を慕っているようだ.笠原先生自身は毎朝8時前には病院へきているけれど,コーヒーを飲んでメールチェックをしたり文献を読んだりで,病棟には9時ぎりぎりまでやってこない,ということを研修医からきいた.ひょっとしたら,笠原先生はもっと早く病棟に顔を出したいのだけれど,他の4人に気を使って?来ないのではないのでは,とも考えてしまう.

笠原先生がもっと病棟を愛せるように,病棟のディテールを笠原先生の好みに合うようにしてみたら,何かが変わるかもしれない.
私はひとつのことを思いついた.
検査伝票用のレターケースをもうひとつ増やしてみた.これまであったレターケースは未読の伝票用とし,新しくとなりに並べたレターケースは「チェック済み伝票」用にすることにした.「○○医師」と上手でない字で書かれていたのを外し,テプラでラベルを付けることにした.「○○医師」という呼び方は「○○容疑者」みたいでいやだ,と石田くんが言っていたのを耳にしたので,「Dr.Ishida」「Dr.Kasahara」とローマ字で表記することにした.笠原先生には,「未読と既読が同じ引き出しにはいっていると,つい目を通されないまま伝票がでたりしたときに事故のもとになるから」と言って説明した.テプラのラベルを貼るときには,曲がったり,左右のバランスが悪くなったりしないように,細心の注意を払った.
新しいレターケースを見て,笠原先生は私に言った.「これでイシダもちゃんと伝票の整理するかなぁ」笠原先生の隣にいた石田くんは「しますよ」と言った.私は少しおどけた声で「今の約束ですよ」と石田くんに言った.
何かのタイミングを捕まえて,カルテの背表紙は何とかしようと思う.患者氏名と受持ドクターチーム,プライマリーナース名が入るようにしてみようか.

医師達が8時半に病棟に来るような,緊急以外の指示は15時までにもらえるような,何か良い方策はないか,毎日そればかり考えている.この2つが何とかなれば,病棟のメンバーの仕事はいまよりずっとスムーズになる.でも,前の看護師長のようにがみがみ言ったのでは嫌われるだけ.彼らを上手におだてて自発的な行動を促すのは,難しいが挑戦し甲斐のあるテーマだ.