妄想プロット:フミちゃん

「おっかねぇ」
フミちゃんはちいさな声で言った.
「大丈夫だよ,川崎センセイは名医だよ.」
「そうか?」
フミちゃんはおびえた目で私を見た.
「川崎センセイはアメリカに留学しているし,うちの病院でいちばん男前だよ.」
ここまで言って,ふっと思った.
川崎先生とフミちゃんの息子は同じ年.


フミちゃんは先週の日曜日の朝,息子に担がれて,病院へやってきた.
「足が黒くなって熱が出ている」と.
フミちゃんは15年前に糖尿病が見つかって,この病院にかかっていた.6年前に糖尿病内科がいったん縮小になるときに,近くの医院に紹介され,それ以後のカルテはない.6年前の時点で,網膜症も腎症も少しはじまっていた.
フミちゃんは救急外来に来たとき,10日前に書かれた紹介状を持っていた.
「どうして,今日まで放っておいたの」
「仕事で県外に行っていて,知らなかった」と息子が答えた.
「植田せんせいはすぐに行げといったども,この子が帰ってきてから,と思って」とフミちゃんが言った.
フミちゃんはDKAになっていて,当直医に呼び出された私の日曜日はまるまるつぶれた.フミちゃんの息子はずっと病院にいて,山ほどある書類にサインをし,売店で紙おむつを買い,フミちゃんのベッドの横で,疲れた顔で居眠りをしていた.実直そうな息子は,自分より若い看護師になんどもなんども頭を下げ,「お休みのところすみません」と3回は私に言った.
プロフィールシートを見ると,フミちゃんは息子と二人暮し.古いカルテの表紙では,フミちゃんのご主人が世帯主になっていたので,この何年の間にご主人は亡くなったのだと思う.息子はフミちゃんが35歳のときに生んだ一人っ子のようだ.
私は,「このまま死ぬ可能性があります」「このまま死ななくても,いろいろな合併症が起きてきて,ちょっと落ち着いた後に死ぬことがあります」と息子に説明したが,重篤であるということをどれだけ理解してもらえたかはわからない.

1週間かけて,フミちゃんはようやく落ち着いた.息子はどうしても日中は病院に来れない,と言い,そのかわり,朝は毎日7時にやってきた.
「フミちゃんは,それでも,息子さんが定職についているし,ちゃんと介護保険も払っているし,まだいいわ」ケースワーカーの瀬川さんが言う.
「ちゃんとケアマネに入ってもらって,訪問看護も入れるようにして,なんとかなるわよ.本当はお嫁さんがいればいいんだけどね」
「川崎センセイと結婚すればアルファロメオがついてくるけれど,フミちゃんの息子と結婚すればもれなくフミちゃんがついてくるね」と私が言うと,
「川崎センセイにはマイルールもたくさんついてきて,それもとっても大変かも」と瀬川さんが笑った.


「おっかねぇ」
フミちゃんはつぶやくように言った.
「足もぐんだろ.おっかねぇ.もいだ足はお墓かねぇ」
「心配していると眠れなくなるから.今夜はお薬をもらってゆっくり寝ようね.明日は朝から飲んだり食べたりはダメだからね」
フミちゃんの布団を直して,私はフミちゃんのベッドを離れた.
お嫁さんがいれば,インスリンは固定1回打ちにしなくてもいいのにね.
お嫁さんがいれば,食事指導に来てもらえるのにね.
お嫁さんがいれば,左足とお別れしなくてもよかったかもしれないのにね.
フミちゃんが死んだら,フミちゃんの息子にはお嫁さんが来るのかしら.